「エンジェリック・キス」と「ゲーム・オブ・チャンス」の間のエピソード。ライヘンバッハの滝から、マイリンゲンの英国屋に、モリアーティを連れて戻ったワトスンは――
◆◆◆
まるで糸の切れた操り人形みたいじゃないか――
闇を睨みつけるようにして、呟いた。苛立ちを抑えつけて、寝返りをうつ。
ヴィーとスタンフォードとともに、俺がマイリンゲンの英国屋に宿をとったのは三日前。
《樽》との連絡も控えたまま、意思に反して留まっているのは、ヴィーのせいだ。
この三日ほど、ろくに眠っていないのも同じく。
ベッドに入ってからも耳を澄まして、隣室の気配をうかがっている。何もそこまでしてやる必要はないとも思うのだが、気になるのだから仕方がない。
真夜中過ぎ、隣の部屋の扉が開き、廊下に踏み出した足音を聞く。
昨夜と同じため息をつき、おもむろに身を起こした。
ガウンをはおり、ランプの光を大きくして、廊下に出る。
目の前を、俺の存在などまるで無視して、あいつが横切る。
仮面のように冷たい横顔。悲しみに打ちひしがれているふうではなく、虚ろというのでもない。
「ヴィー」
呼びかけたが、あいつは振り返らない。手にした燭台の光を追うような、夢遊病者のような足取りで階段を降りていく。
一言も口をきかず、こちらの言葉も耳に入らない様子は、この三日間、変わらない。
まるで意思のない人形のようだ。
だがもしも、あいつが振り返ったところで、どんな言葉をかけたらいい?
俺のなかには、あいつの傷を癒してやれる言葉などない。
せめて睡眠薬をあと少し手元に残しておくべきだったと後悔した。
睡眠薬を持参していたのは、スタンフォードだった。だが俺は、必要と判断した最低限の分量の他、捨てさせた。二度と目覚めなくなるくらいに、ヴィーが薬を飲む可能性を警戒したのだ。隠していたとしても、見つけられてしまうかもしれない。
しかし通常の分量では、今のあいつには効き目がないらしい。
夕食のあと――と言っても、ヴィーは殆ど食べないが、ワインに睡眠薬を混ぜて与える。
ほんの少しだけ、あいつは眠る。だが昨夜も二日前の夜も、深夜目覚めて、そして寝室を抜け出す。
何をするのでもなくて、ただ一階のラウンジにいる。ひんやりとした闇のなか、小さな燭台の光だけを灯して。
部屋に戻れと言っても、こちらを見もしない。仕方がないから、炉に火をいれて、そして俺もラウンジで夜を明かすことになる。
二日目の夜、ある事実に気づいて、舌打ちした。
ヴィーの部屋は、彼がエリザとの逃避行の途中、泊まったのと同じ部屋だった。
部屋を変えようとしたが、遅かった。
あいつは、エリザの思い出の残る部屋で過ごしたくないのに、それ以上にそんなことを俺に対して認めるのがいやなのだ。
小さくため息をつく。
ラウンジの扉の開閉する軋んだ音を聞いた。
暗い部屋にひとりいるあいつを思った。
だが俺はすぐにはあとを追わず、階段の手すりにもたれかかった。ガウンのポケットに煙草とマッチを探った。
まったく、なんで俺がこんなふうにあいつの面倒をみなくちゃならないんだろうか。
本当ならば、あいつに付き添うのはスタンフォードの役目だ。
だが奴は、すぐに戻りますと言って出て行ったきり、三日経っても戻らない。
俺は連中にとっては敵の陣営に属してると言ってもいい。それなのに普通の状態とは言いかねるマスターを委ねて、あの極楽トンボは何を考えているんだか。
まあ、スタンフォードがいたとしても、すべてを任せてはいられなかっただろう。
今回、スタンフォードがとった処置で評価してもいいのは、エリザの死に衝撃を受けていたヴィーに睡眠薬を与えたことくらいだ。
あのとき――
エリザが狙撃されて、滝壷に落下した直後、あいつはまるで無防備な子供のような顔して、俺を見上げた。悲しみを隠す術を知らない子供みたいに。いや違う。あまりにも大きな衝撃を受け止めてかねて、なぜ、と問うような目をしていた。
それはほんの刹那の表情で、すぐに硬い自制の殻に覆われてしまったが、脳裡に焼きついて離れない。
冷たい無表情の下に隠されているのが、大きすぎる悲しみなのだと思うと、やりきれない思いにかられる。感情を押し殺した心の痛みを、俺は知っていた。
それなのに。
意識の表層に賢しげな声が滑る。
チャンスではないか、と。
スタンフォードもいない今、『プロフェッサー・モリアーティ』をロンドンに、《樽》に強制的に連行する良いチャンスではないか。
「そして――?」
小さく自問する。
「《樽》への協力を、あいつに再度請うのか」
協力を請う――
自分が選んだ言葉の欺瞞に苦く笑った。
だがそれこそが俺の本来の務めではないのか。英国と英国民の幸福を守るために、手段を選んではいられないときもある。
しかも相手は犯罪者なのだ。何をためらう必要があるのだろうか。何度欺かれたかわからないというのに、なぜ情けをかける必要があるのだ。
あなたは卑怯だわ
記憶のなかの声がふいに蘇る。忘れようのないニエベスの声。気づかないうちに胸に手を押し当てていた。痛みを感じた。その右手の指にはめた青い石は、今は闇にとけて色がわからない。
彼女自身の正義を貫いたひとの名を、そっと呼んだ。むろん応えはない。目を伏せた。
愛称ではなく、彼女の名を口にした。
ヒルダ、と。
唇がかすかに震えた。
愛していた。
気づかないうちに。いや、気づくのを恐れ、拒絶し、そして――
いい気になっていた。
英国のために働いている自分に。国を裏切ることなく、同時に彼女を救ってやろうとした自分に誇らしさすら感じていた。
彼女への愛すら、醜い自己満足で麻痺させ、真実を見ようとはせずに、認めぬままに――
失ってしまった。
「最低だな」
呟き、視線を空っぽの廊下に投げかけた。
虚ろな空間。今、ここに彼女がいてくれたら、どれだけいいだろう。愛してくれなくてもいい。それでも――
馬鹿げた感傷を振り払う。今は、ヴィーをどうするのかを決めなくてはならない。
煙草をくわえ、マッチを擦った。階段の手すりに背中を預け、薄闇に紫煙をくゆらせて、束の間、目を閉じた。
「あいつは病人なんだ。医者としてちゃんと看てやる義務がある。早く現実に立ち返ることができるように力を貸す義務が……」
《樽》に連行するのはその後でもいい。どのみち、今の状態のモリアーティは使い物にはならないだろう。
そして今、良心と信じるものを裏切れば、二度とは正しい道を見出せないかもしれない。
そうだ。あいつのためではない。自分自身のために、守ってやらなくてはならない。偽善でもかまわない。
「言い訳くらいさせてくれ、ニエベス」
記憶の底に沈んでいく女の影を追う。だが彼女は振り返らない。もう二度と。抱きとめることはできはしないのだ。
「生き方は、二度とは間違えない」
目を開けた。
ゆっくりと階段を降りた。
昨夜と同じく、様子を見守るつもりだった。
万が一、あいつが自分自身を傷つけるような愚かな真似をしないように。
スタンフォードが戻ってきたのは、翌朝だった。
怒鳴りつけてやろうとしたが、できなかった。スタンフォードは、エリザベスを狙撃した少年を連れて帰ったのだ。
そう、ほんの少年だった。天才的な射撃の腕をもつ。ヴィーの傍仕えを務めていたという。
ヴィーはこの少年の顔を見てもやはり無感動なまま、咎めることはなく、一言も口をきかないままだった。
少年を尋問したのは、だからもっぱらスタンフォードだった。
スタンフォードは普段とまるでかわらぬ様子だった。何の心配事もない様子で、よく食べてよく眠る。
次の日、朝食の席についたのは、俺とスタンフォードだけだった。
そのテーブルで、スタンフォードはにこにこと嬉しそうに笑いながら、紅茶を注いで差し出した。
「ありがとうございました、ワトスンさん。ヴィーをみていてくれて。とても助かりました」
厭な予感はした。
だがそのお茶に、たっぷりと睡眠薬が混入されていたのだと気づいたのは、間抜けなことに、黄昏時に目覚めたときだった。
ヴィーとスタンフォード、そしてリチャードの姿はなく、宿の主人に尋ねれば、午前中に出発したという。
スタンフォードの奴、恩を仇で返してくれたわけだ。
「今度会ったら、こっちもきちんとお返しさせてもらうぞ」
今度のことばかりではない。次に顔を合わせたら、絶対に一発殴ってやると決めた。
そしてその顛末?
何が顛末なのか、まだ俺にはわからない。
ヴィーとの関係は定まらないまま。どうするのが正しいのか、暗中模索の状態だ。
スタンフォードに関して言うならば、奴のことも俺にはわからない――いや、もうスタンフォードのことはわからなくてもいい。
なぜため息をつくのかって?
察してもらいたいね。
―end―
(c)2004 MANASE MOTO (真瀬もと)